そらになりかけ

音楽と生き方について話してます。

【やばいの汎用性がやばい】語彙力の低下と言語の外側について

近年は語彙力の低下が嘆かれていますね。

でもそれはそこまで悪いことなのでしょうか?

どうも、ガンモです。

 

私たちは言葉によって世界を認識しています。

言葉にできないことは伝えられません。

それだけ私たちは「言葉」に依存して日々を生きています。

 

 

「やばい」という言葉はもうやばいっていうのは皆さんもやばいほどご存知でしょう。

やばいだけで一体どれだけの意味があるのか。

 

 

どんな会話も「やばい」を使えば切り抜けられるような時代です。

語彙力の低下として嘆かれていますね。

 

でもそれって、言外のコミュニケーションと言えるのではないかな?ってふと思ったんです。言葉にできない感情に仮の姿として「やばい」を与えているだけって捉えるとちょっといいポイントにも見えてきます。

 

同じ言葉からでも、状況とトーン次第で、雰囲気や言葉にできない思いを伝えられるような気がします。うまくいかないことも多いですけどね。

 

なんとも言えないような言葉にできない感情を「やばい」や「エモい」で伝えられる。

たしかに自分の感情を表す語彙を知らないっていうのは問題かもしれません。

思ってることを伝えられないのは困ることが多い。

 

 

「エモいね」

「うん、エモい」

的な会話でいったい何が伝わっているのか。

もう認識の相違起こりまくりかもしれませんね。

でもまぁ、それでいいじゃないかって思うんですよ。

100%の理解なんてお互いできないんだから、理解の仕方を相手に丸投げしちゃってもいいじゃないですか。

 

 

僕は前からずっと、「言葉でしか物事を認識できない」という現実がなんか嫌でした。名前をつけなきゃ識別することも呼ぶこともできない。

「名前とは呪いであり記号だ」 

という話をどこかで聞いたことがあります。

そう名付けられてしまえば解くことのできない呪い。それが名前。言葉。

 

言葉とは名前ですね。

だから辞書ができる。

ある事象に定義を与えて、それに名前をつけることで言葉は成り立っています。

 

名前とは認識。認識されてから存在が認められるのかな。

見えないものでも名前がついていれば認知されていることにできてしまうんですね。

心とか、愛とか。

 

つまり、、、

どこかで定義されていないことを僕は言葉にして表現することができない。

そうなるとやっぱり定義を持っていないに等しい「やばい」「エモい」っていう言葉はすごく可能性を秘めているように思うんですよね。

 

 

まとめ

どうしようもなく言葉にできない感情を表現したいときに

「やばい」

「エモい」

を使えるってのは、悪い面だけじゃないよなぁって思ったって話でした。

所構わず使うんではなくて、こう、どうしようもなくなったら、「エモい」って言いたいですね、僕は。

 

ここまで読んでくれてありがとうございます。ではまたっ!