そらになりかけ

音楽と生き方について話してます。

「完全な利他主義」は存在し得るのか

「誰かのために生きる」という台詞をよく聞く。

誰かのために生きることが、自分のためならそれはもう自分のために生きているのではないか。

 

「自己犠牲」という言葉に違和感を感じる

 

まずは人に利益を与えることを考えるべきらしい

与えた与えて与えて与えて…

そしてやっと一つ返ってくる

 

それくらいなもんらしい

 

何を与えるか

何をもらうのか

わからない

「情けは人の為ならず」

という言葉が昔からあるように、人間は助け、助けてもらうことで社会を形成してきた。

一人で生きていく、というのは、とても難しい。

病に伏せれば、ただ水を飲むこともままならなくなってしまう。

だから、自分が困った時のために人にも親切にしておくのだろうか。

 

 

「あの時助けてくれたから、次は私が助ける番」

甘いセリフだ。

見知らぬ人に手助けするのは簡単だ。

見返りを求めないから。求めようがないから。

しかし身近な人だと、「よく見られたいだけかもしれないぞ」と、醜い自分が顔を出す。

ただ手を差し伸べるにも大きな勇気がいる。愚かなことだ。

 

 

自分の利益を度外視した行動というのができるものなのだろうか。

「その人のためになら死ねる」

そう思える人がいたら、それはとても幸せなことかもしれない。

死を恐れないほどに何かに懸けられる。そんな場面が私には想像できない。

 

結局僕は自分本位なのである。

 

相手のことを考えた行動、がわからないのだ。

「結局それは自分に返ってきて欲しいからやってるんじゃないのか?」

と、自分が自分に問いかける。

 

ただの親切な、ちょっとした行為も、自分が親切で優しい人間に見られたいだけな気がするのだ。

 

 

階段で重そうな荷物を持ったお年寄りを助けるのは、その人のことを思った行動なのか

恋人に誕生日サプライズを仕掛けることは相手のことを思った行動なのか

 

「やらない善よりやる偽善」とはよく言ったものである。

 

 

人を助け、感謝されるのは素直に心地がいい。

ちょっと勇気を踏み出す。

そうすると、お互いが気持ちよくなれる。

 

過程はどうあれ、この結果は確かなことではある。

なら、別にそんなに考えなくてもいいのかなぁ。

 

 

「完全な利他主義」は存在しないのだろうか。

命を捨ててまでの覚悟の果てが「完全な利他主義」だと思う。

考えるより先に体が動いていた。

そんな風に考えずに身を打ってでも懸けられる何かに出会いたいなあと、ふと思った次第である。